whitecanvas’s blog

真っ白なキャンバス。そこに何を描くのか。

料理本のレシピに突如出てくるだし表記に頭を抱える

どうも、お久しぶりです。生きてます。生きてるって素晴らしいね。

本当は月に一度くらいのペースで穏やかに出来ていれば良かったんですが、そうは問屋が卸さなかった。残念。

 

最後の更新が2021年の7月。3年前とはたまげたなあ。

しかし濃厚な3年間。なんというか色々あったなあという忘備録。本当はちまちま下書していたんですが消失。なんてこったい。そんなこんなでモチベがだだ下がりここに至る。そして、今パソコンで入力しているんですが、ちょっとキーボードが言う事きかなくなってきた。掃除とかでなんとかなるのかしら。あとで先生に聞いてから色々手を打ってみます。最悪新調で。もう長い付き合いになるからね。化石!

 

ちょっと遡って色々軽く書いてみよう。

2020年末、当時付き合っていた女性と別れる。色々割愛するけれど、友達同士に毛が生えたような状態で、簡単に言えばさなぎの中で羽化することなく死んだ感じ。彼女との付き合い自体は一昨年の9月くらいまであるものの、その後正式に友達付き合いも解消。

2021年7月くらいまで生きる屍→魔道祖師にドハマりし生きる希望を見つける。

8月頭。大好きだった祖父が他界。奇妙な夢を見る。

9月くらい。メイドインアビスを知り度し難い世界観に身を震わせる。

年末。友人とぶらぶら出かける。

2022年1月。レジンなるものに手を出してみる。

2月。後にとても大切な人になる人物に出会う。刀剣乱舞無双でわいわいする。

3月。国広再臨はアツい。

4月。仙台うみの杜水族館へ。やはり水族館はいい。

5月。休館前の土方歳三資料館へ。兼さんかっこいいよ!琉球展(前期)も行ったなあ

6月。ミュージカル刀剣乱舞真剣乱舞祭広島公演へ。次の週は琉球展(後期)

7月。いろいろ頑張ったけど駄目な時もある。初めて原神に手を出す。

8月。人生初ヘアドネーション。わたしの髪は有効活用された!人生で一度は社会貢献したいよね。

9月。トマトソフトクリームという未知なる甘味を食す。

10月。色々な意味ですごく動いた月。ずっと続いていた関係をすっぱり断ち切って、新しい関係が実を結んだ月。目まぐるしかった、とにかく。

11月。と言うわけで初デート。デートと言うか最初は普通に遊んでいるつもりだった。Lineやメッセでの距離感に困惑していたが、のちに「恋人同士のつもりだよ?」と言っていたので、彼女ができました。とほぼ同時に母に乳がんが発覚。おお神よ。

12月。彼女とデート。惚気そうなので自粛。乳がんは検査に検査を重ね、あまり芳しくないとのことで年内中に点滴に漕ぎつけたい先生と相談し、なんとか年内に1回目の点滴を開始する。

2023年1月。ミュージカル刀剣乱舞江おんすていじを観るために母と大阪入り。配信で仲良くさせてもらってる視聴者さんとちょっと遊んだり。

3月。彼女とのデートに寝坊をして大遅刻。人生終わったと本当に思った。心なしか移動中の彼女が怖い。自分のやらかしなので申し開きも出来ず縮こまって終わった。

8月。ネットの友人と一緒にゲルテナ展へ。見ごたえあって楽しかった…!

 

…と、今に至る。

書いてない月はだいたい彼女とデートしたり母が入退院繰り返していたりで奮闘してました。しかし秋口から彼女が徐々に忙しくなり、プラス諸事情で月一のデートは厳しいのと色々あって冬の外出はあまり得意ではないこととインドア派と教えてもらったのでデートの感覚を調整している感じです。私としてはだいぶ悲しい。

 

そしてタイトルドン

 

がん治療の副作用でものが持ちづらくなった結果、母は家事一切がしづらくなり、わたしと父が家事を熟すようになりました。

父は洗濯はともかく料理が結構雑で…火力強めのひとで、ちょっと放っておくとすぐ焦げたりします。カレーとかはすごくおいしいんだけど、焼き魚とか壊滅的で、そんなときはわたしが、出勤時間に余裕があるときは夕飯を作って仕事に行く、という感じです。

しかし、毎回単純なものだと面白みがない…というレベルまで達していない。何故ならばわたしは料理が苦手。初心者でも出来る!などといったうたい文句のレシピ本を手に取りぱらぱらとページをめくり、意を決して購入。帰宅してじっくり読んでみるとそこに鎮座する文字

ダシカップ3杯

まて。どっから出てきた。出汁ってそんなにストックあるもんなん??

別にダシが嫌いな訳じゃあない。むしろおだしの旨味は好きなんだ。優しくてあったかい。

だけどな、料理あんまやらんやつにいきなり出汁はハードル高いて。

と言うわけで急きょグーグル先生に聞いて、顆粒だしで何とかなるというのを教えてもらい事なきを得たのでした。

 

レシピ本、油断ならねえぜ…

配信アプリでのらりくらり

去年の10月半ばくらいからREALITYというアプリで配信を始めました。

https://reality.app/profile/becc02a1?adj_t=8ogcewh_z9yhix5

 

 友人に誘われてやり始めて、まあぼちぼち経ちます。雑談の様にだらだらとくだらないことを話していたりします。主に深夜に色々なことをお話ししていたりしますが、潜って聞いていただくだけでも大変ありがたいことです。

わたしの性格上、ブラックな事とか精神が病んでいること、自虐ネタを話の種にしようと毎度毎度思っているんですけれど、どうも配信を始めると聞いている人が楽しい話、そしてわたしも楽しい話をするように意識しちゃうんですよね。ごくごくたまに、ちょっとした愚痴をこぼすこともあるけれど、わたしが何度もループする愚痴を特に苦手としている(話は一応聞く)こともあり、あまりそう言った話をしたくないなァ…というのはぼんやりと思っています。

わたしはわたしなりに、一所懸命頑張っているのですが、やはりここも腐ってもインターネッツの世界。やはりどうしても評価が気になってしまう。

どんなに毎日頑張っても増えないフォロワー、配信しても誰も来ないなんてザラで。

一方わたしを誘った友人は15分程度の雑談を毎日だったり数日休んでもフォロワーは増えていき、ギフトを投げてくれる人も沢山いて。

平和に自枠(自分の配信)に遊びに来てくれる人と平和に歓談している。

かくいうわたしは、配信を始めるときからずっと恐怖に震えながら配信ボタンを押している。誰か来るだろうか。変な人が来ないだろうか。物凄い失言をしてしまわないだろうか。

わたしは口が悪い。以前勤めていた職場で部下(と言ってもとても年上のベテラン、そしてお局様)に面と向かって「あなたはとても口が悪いね」と言われたことがある。影で言われるよりはだいぶマシではあるのだが、それでも当時のわたしの後頭部を殴打するには十分な一撃だった。確かにわたしは口が悪い。これはだいたい父親譲りであり、我が家は基本(特に父娘の間柄では)暴言がデフォルトだった(注:父娘仲は非常に良好。暴言と言うが本気ではなく悪態レベル。ただし親には暴言なんて以ての外!という方々が見聞きしたら目眩を覚えるか泡を吹くか卒倒するんじゃないかな、と思う)。家でやっていることは表に出てからも出るなどとよく言われるが、この口の悪さがその当時は出てきてしまっていたのだろう。それから基本、長い付き合いの友人以外にはだいたい敬語でしゃべったりしている。ただ言葉の端々に悪い言葉が入るゆえに、聞いている人からは非常に慇懃無礼に映るかもしれない。

そう言ったこともあって、顔が見える実際でのお喋りよりも、このアプリでの配信の言葉遣いはとても気がかりになる。このアプリは自分のアバターを作って配信するのだが、それは顔を見られたくないわたしには良いことでもあった。が、細かなニュアンスが伝わりづらく、かつその場にあるもの(景色だったり建物や食べ物)から話題を引き出すことを得意としている自分にとって共通の見えているものがないと言うのは、なかなか辛いものがあった。

それによく、変な人が来る。無自覚な荒らしなのか何なのか分からないけれど、わたしの枠で何か変なご高説を垂れるのはやめてほしい。

毎回毎回人が来ないフォロワーが増えないと嘆いているのだが、よくよく考えると増えなくて当たり前なのだ。

この配信アプリのメインターゲットは10代から20代くらいで、彼らは『普通の世界』で生きている。普通の世界だよ、普通の世界。

朝起きて昼は働いたり学んだり、夜は家でゆっくり過ごして眠る。土日と祝日が休みで、盆暮れ正月に黄金週間はお休み。そんな普通の世界に生きている人が多い。その普通の世界に生きている人たちが視聴や配信に興じている時間は、わたしは働いているのだ。汗水たらして頭を下げて、最低賃金で生きている。そういうのもあるし、たぶんもっと貪欲にフォロワーを増やしたいのであれば、貴重な休みや皆に合わせる時間で自枠を設けたり面白い企画を考えたり、他者の枠に顔出しやあいさつ回り、コラボで参加して多くの人に自分を知ってもらおうという努力をするのだろう。

だがわたしはそれをしない。しなかった。わたしは自分がつまらない人間だと思う。そんなつまらない人間が無い頭捻って考えた企画が面白いかどうかは非常に疑問だったし、二次創作を嗜む身としては渾身のギャグ小説を書いたときに滅茶苦茶滑った苦い記憶があるので、きっとわたしにそういったものは似合わないのだろうと嫌でもわかっている。他者の枠に顔出しやあいさつ回りに行ったところで、それがこっちに戻ってくる保証なんて何一つない。自分の中で誰かに期待をすることが嫌いだから、純粋に行きたいと思っている人の枠だけ遊びに行くようにしている。あとスマホのバッテリーが持たない。許せサスケ。コラボ配信だってそうだ。自枠でやるにしても止め時がわからなくなるし、飽き性もあるから終わったらさっさと終了したいどうしても主役の座をコラボしてくれる人に譲ってしまう。他人(主に友人)の枠にお邪魔するときもあるが、もうここに来たわたしは借りてきた猫状態になってしまう。ミュートにしてないのに黙りこくって、ただ他の人の話を聞いていたりたまに相槌を打ったりしている。

加えて、配信時間に対する努力を怠っている。幾ら帰宅時間が遅くとも、夜の24時や25時くらいならまだ人が居る。だけどわたしはその時間に配信はしない。なぜならば深夜アニメが優先という舵を切ってしまっているから。

とどのつまり、配信に対して真摯に接していないから、自分なりに頑張ったはいいもののそれだけで終わっているのだろう。わたしはそう思う。何の努力もしていないのに他者を羨んで腐っていた自分が嫌なのだが、同時に何で他人に合わせなきゃいけないんだ?と言う開き直りにも近い思考が途中に出てきているので、一時期は精神的に病んでいたものの今は「だけど何か?」と言いたげに開き直っています。

「ついてこられるやつだけついてこい」

などと思っている。もちろんそれ抜きにして、カリスマもなければ人望もない。見ず知らずの人たちと群れるつもりはないのだろうと自己分析。慣れ合うのは大好きなんだよ。だけど一気に大勢の人と群れるとパンクしちゃうしあなたと分かり合えない。だから少人数でお話したりしたいんだ。……そう自分では思っているのだけど、きっと伝わらないからここに書き殴っておこう。

 

とりあえず1年は頑張ってみます。『普通の人』は3か月もしないうちにフォロワーを100人や200人獲得してすごく高いギフトを配信中に投げてもらえたりするらしいんですが、わたしはいまだに100人も行っていないです。某所ではいわゆる『泡沫配信者』の部類に入るらしいですけど、油の張った水に消えずに残っている泡の様になんとか残ってはいます。が、1年経って100人超えてなかったらROM専にでもなろうかな。

正直な話、配信しようなんて思っていなくて、ただ友達の枠を聞きに行って、後方彼氏面してるだけで結構満足なんだよなあ…。

祖母が他界しました。

去る三月下旬(2020年)に祖母が他界しました。残念ながら今流行のコロコロではないです。

見送りも一先ずは終えたので、頭の整理がてらつらつらととりとめのないことを書いていこうと思います。

 

祖母が他界する数日前、わたしは元気に労働に勤しんでいました。

仕事を終えて自宅に帰り暫くしていると母親がぽつりと「おばあちゃんが倒れた」と言った。

それを聞いたわたしはぽかんとしたし、何かの冗談だと、最初そう思った。わたしが直接見たわけでも聞いたわけでもなく、又聞き。確証も確定もされていないその言葉に、本当に冗談だと思っていた。何かの見間違えだと、聞き間違えだと。

母親的には今すぐにでもすっ飛んで行きたかったようだったが、自分の病院があるので数日先延ばしにする…と言う感じで話を聞いていた。

その日から母は胸が痛い、と時折胸を押さえていたのだけど、これは恐らく虫の知らせか何かだったのだろうと、今はそう思う。

一日か二日後あたりに叔父さんから電話があり、祖母の血圧がゆっくりと低下している、と知らせを受けた。どうやら病室から電話をしているようで、叔父さんはわたしに「何か声をかけてやってくれ」と言っていた。

わたしにとってそれは現実味がなく、どう声をかけていいか見当もつかず、支離滅裂な、雑談めいたことを言っていたと記憶に残っている。母に替わってほしいと頼まれ、離席中だった母に事情を話し携帯を渡すと「頑張ってね!!すぐ行くから、頑張って!!」と精一杯の声量で叫んでいた。

わたしはこのとき、祖母が本当に危ない、と初めて認識した。

 

次の日、母の病院が終わり、最寄りの駅で彼女の分の新幹線の切符を購入し、さていつ乗ろうかと母から相談を受け、わたしは明後日がいいのではないかと答えた。

万が一の場合の礼服の手配や、主に着替えや諸々。あまりにも急すぎたので準備が整っていなかったのが原因だったのだが。不幸中の幸いかどうか分からないが、次の日はとても強い強風で新幹線は止まり、祖父母宅に行く電車も少し怪しい…とそんな一日だったから出発しなくて正解だったと思う。

そして母は祖母が入院している病院へ向かい出発した。

わたしはわたしで仕事なり毎日の食事だったり、祖母が回復するか、あるいは…と言う何とも宙ぶらりんな感じで日々を過ごすのだろうと、その時はそう思った。

 

しかしそれは急に終わりを迎える。

わたしはいつも明け方までのんべんだらりと起きている。次の日に備えてそろそろ眠ろうと床に就き、うつらうつらとしているとわたしのスマホから着信音が鳴った。

着信の相手は母親。この時点で何となく察しはついた。受話器の向こう、母親が「おばあちゃんが亡くなった」と小さく言った。わたしは「わかった」と短く答えて電話を切り、父の部屋へ行くと寝ている父を起こして祖母が他界したことを告げた。

わたしは寝床へ戻るとぼんやりしながら母の言葉を反芻していた。

何時もなら気絶するように眠れるのに、その日はなかなか眠れなかった。

わたしの記憶が途切れたのは、外がもうしっかりと明るくなったときだった。

 

次の日、わたしも父も仕事に行った。わたしはすぐにでも行きたかったのだが、家長が判断したのだからそれに従うことにした。きっと何かわたしが知らない事情があるのだろう。仕事を終えて帰宅したわたしは自分と父の準備に取り掛かり、翌日朝方に上司に連絡し、自宅を出発したのは昼過ぎだった。

お通夜には間に合わない、それは承知の上で、母も事故が無いようにゆっくりおいで、と言ってくれた。なにせ自宅から祖父母の居る所までは車で片道7時間前後かかる。休憩時間を入れればもう少しかかるだろう。もちろん短縮できなくはないが、そっちの道はデメリットもある。遠距離はまず、幹線道路や知っている道を使った方が確実だし、田舎のガソリンスタンドの無さを舐めてはいけない。わたしの運転で、まずは怪我なく事故なく辿り着くことが第一のミッションだった。

 

わたしの頭の中はさながらシュレディンガーの猫だった。本当は何かの冗談か、そう思った。

刻々と過ぎる時間に比例して近づく目的地。運転自体は苦ではないし、別段逸る気持ちは特になかった。

だけど斎場について、棺の中で眠る祖母を見たときは、言葉が出なかった。

言葉が出てこなかったと同時に、出てきたのは後悔だった。

どうしてもっと祖父母宅に来なかったんだろう、電話越しでも構わなかったからもっとたくさん話をすればよかったとか、出てくるものは後悔ばかりで。

棺の中で眠る祖母は、化粧も相まって非常に血色が良く、まだ生きているんじゃないかと、そう思ってしまうほどだった。今にでも起き上がって、声をかけてくれるんじゃないかとか、そう思ってしまった。

父と共にひとまず残してあった料理を食べる。来る前に食事を済ませていたのだが、なんとなしに食べなきゃいけない、とそう思いながら食べていた。

父は寝ずの番を務めると言う事で斎場に残り、母と私は祖父母宅へ行くことにした。次の日も早いので、お風呂に入ってから諸準備をするとわたしは眠りについた。

 

次の日。礼服に着替える。何度か袖を通したことがあるが、いずれもそれは他人や遠縁の親戚だったり、知らない人の葬儀に参加するためにしか袖を通したことが無くて、なんというか不思議な気持ちだった。

お通夜には参加できなかった分お葬式は最初から参加をした。棺の中で眠る祖母は、昨日と変わらない。式は滞りなく進み、スタッフの方が故人に言葉をかけたり触ってあげたりしてください、と言っていたのでわたしは祖母にそっと触れた。

…とても、ひんやりしていた。

人生で冷たいものには何度も触れたことがある。冷水、氷、冷たい掌、深海の温度を模した鉄棒……。しかしそのいずれにも該当しない、冷たくなった人間の体温。いくら手が冷たくても、その冷たさの中に温かみがあるのが人間の体温と言うものだろう。だが、故人である祖母にはその温かみがない。この時わたしは、ほんとうに祖母が鬼籍に入ったのだという現実を突きつけられた。後頭部を、なにか見えない塊で殴られたような、そんな衝撃を受けた。この時の死者の温度は、きっと一生忘れないだろう。

だがそこで立ち止まるわけにはいかない。体が悪く式に参加できない祖父の代わりに祖母の写真を多く収めないといけない。

例え遺族――いやわたしも遺族だが――の許可があっても死者の写真を撮るのは憚られる。撮っていいのだろうかと二の足を踏んでいたが、母が「おじいちゃんのためにも撮ってあげて」と背中を押してくれたので、心の中で合掌をしてから棺の中で眠る祖母の写真をたくさん撮った。ひとりだけのも、母や叔父たちと一緒にフレームインしているものも撮った。暫し自由行動をしていると、火葬場に移動するというので、わたしは両親を車に乗せて霊柩車の後をついていき火葬場に移動した。

その後、諸々の手続きやさいごの挨拶をして、祖母を納めた棺は火葬するための炉に入れられた。

炉で焼かれている間は親族たちが和やかに歓談をしている。わたしは自販機で飲み物を買って飲みながら施設内にある喫煙所でぼんやりと煙草を吸っていた。喫煙者である叔父さんと、ほかのわたしの知らない人が煙草の話を興じている。

一服が終わるとわたしは父のとなりの椅子に座った。母は肉親であるから色々あるだろうけど、父はそうでもないし、わたしはとりあえず手持無沙汰をなんとかしようと父の傍に行っていた。何かあれば父が知恵を貸してくれる。わたしは父が大好きだから、有事の際の父は非常に頼もしいひとだ。

父も知り合いの人と雑談に興じていた。恐らく中には知らない人も居るだろうけど、父のコミュニケーション能力は半端ない。冗談交じりで会話を進めていく。わたしは知らない人だらけの中父の隣でスマホを弄っていた。ありがとう現代の利器。

そうこうしているうちに火葬が終わったとアナウンスが入る。火葬が終わったばかりの部屋に入ると、入る前より部屋の中がとても暑かった。きっと、たぶん恐らく、人を燃やしたあとの熱なのだろう。

部屋の真ん中には祖母の遺骨が横たわった状態で安置されていた。わたしが遺骨を見たのは、人生で数度あるが、その中でも群を抜いて残った骨の数が少なかった。

晩年寝たきりだった祖母の骨は脆く、確かに残ってはいるのだがあまり数は多くなさそうな印象を受けた。何れは父も母も、そしてわたしもこうなるのだろう。父母はともかく、わたしには誰か看取ってくれる人が居るのだろうか。骨壺に骨を納めた後、わたしはぼんやりとそう考えていた。看取ってくれる人が誰もいなくても、役所のひとでもいいから、最悪わたしの棺には子供の時から共に過ごしたぬいぐるみを1体入れてほしい。おはようからおやすみまで一緒に暮らしている家族であり友であり恋人のような子なのだ。その子がいれば、あの世でもまあ何とか楽しく暮らせると思う。しかしよくその火葬場の注意事項・棺に納められるものの欄を見たらぬいぐるみは×と書いてある。後生だから入れてほしい。それさえあれば他は何もいらない。

話が逸れたがその後お寺に移動して先に四十九日法要をやったんだと思う。だがこの道中、火葬場からお寺に移動するときにトラブルが起きる。両親と叔父たちは骨壺、遺影、位牌を持ち、ひとりは運転だったので同じ車に乗る。しかしその車はわたしの車ではなく叔父の車だ。わたしはというと、ひとりで行くのかなと思っていたらなんと故人への供え物を手に持った男子高校生がわたしの車に乗り込むことになった。わたしの頭は混乱した。確かにその男子高校生は火葬場はもとよりお葬式にも居たと思う。わたしが全く知らないだけで、母は知っているのだと思うけれどこのコミュ障に未知の生き物である男子高校生をぶつけるのは如何なものかと思う。案の定、道中暫く無言が続いた。

わたしは沈黙が嫌いだ。

車内の音楽はわたしが普段聞いている音楽が流れていたし運転していたことも相まって我慢できなかったわたしは勇気を出して沈黙を破った。

それを皮切りにわたしは道中彼と雑談に興じる。部活はどうだとか、進路はどうだとか、趣味はなんだとか。幸いにして彼の趣味の一つであるゲームにわたしは比較的広く浅く手を出しているので、どんなゲームしてる?みたいな感じで話に花を咲かせた。どうやらモンハンだったようで、わたしもモンハンはそこそこやっているので上手い具合に話題には事欠かなかった。やはり人生いろいろ手を出してみるものだと思う。

そうこしているうちに寺に着き、わたしは彼と歩を進めて境内に入る。両親と合流するとともに彼との会話は終わりを告げた。

諸々行事が終わり、祖父母宅へ帰る。家から動けない祖父の為に、精進料理は祖父母宅で取ろうと言う話らしい。わたしは邪魔にならないよう2階へ続く階段の途中で座っていた。

和やかに歓談しながら仕出し弁当を突き食べる。和食がメインでキッズのような舌を持つわたしの口には合わない料理もあったが、なんとか胃の中に収めた。

そんな中祖母の親戚なのかわたしは全く知らない人だけど、お兄さんが一人『能力者』のようで「祖母が見える。叔父(末弟)のことが心配で居間と台所をうろうろしてる」などと言っている。ほかにもわたしの隣に座る女の人の守護霊というか、猫飼ってる?傍にいて心地よさそうにしているよ、とか後ろに亡くなった方が居て守っているよとか言っている。どうやらマジモンの『能力者』のようで、狐の神様か何かを体内に入れているとも言っていた。どうやら他人の死ぬ日がわかるらしい。デスノートの死神と取引でもしたんか。だがそれを他人に言うと自分の寿命が縮まるし、自分がいつどうして死ぬということも分かっているから、みだりに言わない様にしていると言う事だった。

そんなお兄さんが帰り際に、叔父(次男)に対して意味深なことを言う。「すごく黒い靄がかかっているから、暫く気を付けた方が良い。取り返しがつかないことが起きる」

その時は叔父は酒が入っているせいもあってへらへらしながら大丈夫、気を付けると言っていたしわたしも話半分で聞いていたが、そのお兄さんの忠告はその夜現実のものとなった。

人間の死後、死者はどうあれ遺族間では揉め事が起きることが多い印象がある。遺産だったり何だったり、理由は様々だ。

次男と長男で喧嘩が起きた。理由は至極簡単、金銭関係。

わたしは居間でごろごろしながらスマホを弄っていたが次男も居間で酒を飲んでる。詳細はわたしにもよくわらかなかったが、次第に尋常ではない空気を孕んでいることに気付いた。気づいた時にはわたしも逃げるタイミングを逃して苦笑いしかできなくなっていた。

「金、金、カネって兄貴はそればかり!わかった!俺今から100万おろしてくるから、それ手切れ金。明日にはここを出て行って、この家とは縁を切る!」

物凄い剣幕で啖呵を切っていた。この時長男は自室に戻っていたが、ここ数日の金銭関係の鬱憤が爆発して堰を切ったように溢れ出していた。わたしは話を聞きながらあのお兄さん本物だな…とぼんやり思っていた。

近場に居た母と一通りの家事を終えた末弟が次男を宥めていた。わたしはいたたまれなくなってトイレ行ってくると席を立ち、用を足した後戻るのも嫌だったので階段に座っていたがまだ肌寒いのもあって居間の隣で寝ている父の隣の布団に入ると終わるまで耳を塞いでいた。

その後の事はよく覚えていないが、とりあえず縁切りまでには発展しなかったものの長男と次男はぎくしゃくしていて、他人行儀になっていた。最低限の会話はするがそれ以外は無し。例えて言うなら会社でどうしても嫌いな人と仕事しなきゃいけないときの作法のような、そんな感じだ。

そんな形で祖母の葬儀は幕を閉じた。母はまだ残っているとのことで、祖父母宅に残し、わたしと父は仕事があるからと着いた日から帰るまで4日間過ごしてから自宅に戻った。

この数日間はいろいろあったと思う。ただ、わたしはおばあちゃんっ子じゃないから、祖母の他界ではあまりダメージは受けなかった。だが、それはつまり逆である。わたしはおじいちゃんっ子なのだ。小さい時から祖父母宅に行けば祖父が海に川にと連れて行ってくれて、祖父の持つ小さな舟にのって釣りに出かけたりしたり、色々なことを教えてもらったりした。わたしは幼いながら、祖父と出かける海が大好きだったし、舟に乗って普段はいけないような所で船酔いしながら過ごすのがとても好きだった。祖父の作るいわしのつみれが、とても好きだ。

今(2021年7月)両親から聞いた話だと祖父は肺炎を患って入院中らしい。コロコロではない。実しやかな噂だが、半年持つか持たないか…などと噂されている。

祖父が他界したら、わたしはいったいどんな顔をするのだろうか。できればあまり想像したくない。それでも僅かな可能性があるのなら、祖父には少しでも長生きしてほしい。

単なる孫の我儘を綴ったところで、この話はここで終わりとします。あれから1年と少し経ちましたが、コロナの影響で祖父母宅には行けずじまい。早くなんとかならんかなあ……

友人の結婚式に寄せて

結局はこういうスタイルに落ち着くと言う(書き方の話)

 

https://www.instagram.com/p/BxIez-zn345/

友人の超個性的すぎる #結婚式 。#レストランウェディング という形態は初めてだったけれどお料理もとっても美味しかったし、何より中学からの友人の #晴れ姿 は自分の事のように嬉しいです。 #末永くお幸せに #happywedding

 

先日は中学からの友人の結婚式だった。

黙っていれば可愛い彼女の事だから遅かれ早かれ結婚するだろうな、と昔から思っていたが遂にこの時が来たか…と戦に臨む武士のような心持ちだった。

Twitterには文字数の制限の都合上色々書けたり書けなかったりがあるが、なに、ここはわたしのブログだ。あることない事津々浦々と書いてやろうじゃあないか。

 

わたしは生まれも育ちも東京であるが小学校卒業後に諸事情あって現在の住まいに引っ越してきた。右も左もわからない自分にとっては慣れ親しんだ東京とは打って変わって日本代表も真っ青なアウェーだ。方言を使うクラスメイト達にニュアンスで何とか応えたりしていた折に、わたしは後ろの席の子と仲良くなった。その子が切っ掛けで、高卒後にはほぼ連絡の取れなくなったA嬢、このたびの大変めでたい場に同席したY(以下神)とよくつるむ様になっていた。

彼女らがきっかけで他にも何人か友人が増えていくのだが、新婦もその一人だった。

最初に会敵…エンカウント…会って喋った時の感想は「個性的なひとだな」と思った。ただ悪いやつではないなって思ったから、今もこうして良い関係が築けているのだと思う。

最初はクラスも違うのでなかなか喋る機会はなかったものの、我が母校はいわゆるヤンキー校みたいな感じで、授業がだるいから帰りのホームルームしか出席しなかったり、授業中にふらっと廊下に出て出歩いたり、敷地内からタバコの吸い殻が見つかったり、トイレからお酒の缶が出てきたり、喧嘩でガラスを割ったり、校門前の道路を爆走するマフラーを吹かしまくったバイクが現れたり、新聞沙汰になったらしいリンチで後輩をシバいた奴がいるとかなんとか、だいたい実話だがなかなか世紀末み溢れる学校だったためこの学年だけ3年次もクラス替えがあったと言う真偽不明の噂を聞いがその際に同じクラスになったことでよく話しつるむ様になった。そんな折に彼女の自宅とわたしの自宅が近いと言う事を知った。

高校は違う学校に進学した。彼女と神は学科は違うものの同じ学び舎に通い、わたしがあずかり知らぬ親交を深めていったのだと思う。わたしもそれなりにメールなどでやり取りをしていたが、やはり日常の渦と言うものはすぐに郷愁を押し流し高校の頃の友人に時間を割き、当時のめり込んでいたゲーセン通いを加速させていった。とはいうもののそこはヲタク。地元で開かれるイベントなどで出会ったりあらかじめ一緒に行くことを決めておけば、一緒に行ってわいわいしたりするのであった。

高校を卒業し、わたしは地元企業に就職した。就職してから確か記憶が正しければ彼女は東京に上京し、美術の何某かの教育機関に通っている、と言う話をたぶんmixiかメールか、恐らくそのあたりのツールで聞いたと記憶している。

それからしばらくしてわたしの普段の時間つぶしがmixiからTwitterに変わって少しして、彼女がTwitterをやっていると言うものだから相互フォローしてとか何とかやって、こうして現在に至る。

彼女が東京から地元に戻ってきたときは神と3人で飲んだり、20代も後半になってきたときにはお互い平日休みの時に山だったりうろついたりして遊んだ。会っても居ないし連絡も取ってない時期は確かにあったけれど、Twitterと言うツールのお陰で彼女が平常運転だと言うのが手に取るように分かっていたし、個性のとがり方が半端ないのでそれはそれで変わっていないことがわかって安心した。

彼女が旦那氏と付き合い始めてから一度だけ彼女と旦那氏と神とで、彼女の家で宅のみをしたことがあるが、その時から割と結構イチャイチャしていたので、友人に彼氏を紹介するっていうのは、まあそう言う事なんだろうなと思ったし、まあそうなったな、と思う。神はわたし以上に何度か彼女らと飲んでいるらしいが、わたしより長く深い付き合いをしているのだから妥当かなと思った(謎の上から目線)

 

そして月日は流れ昨年10月、京都で刀剣の展示があるので目覚まし代わりの母を連れて京都に足を運び、ホテルにチェックインして荷物を置き、夜の京都タワーでわいわいしてるのをTwitterで呟いていたらそのリプライに

「結婚式やるからお前来いよ!」

始発で地元を出て乗り遅れまいと急いで新幹線ホームの売店で朝食代わりの弁当を買い、追加料金のかからない時間帯の新大阪行きの新幹線に乗って、京都に着くなり荷物を預けて行きたいところを少し巡り、平日にも関わらず京都国立博物館の人の多さと展示物の充実さに思考停止し、お土産や図録を買ってさあホテルと言った折に宿泊先からオーバーブッキングのため京都ホテルオークラに移動してほしいとお願いされて承諾し、ホテルに着くなりお偉い人から名刺を手渡され深々と頭を下げられ、ウエルカムドリンクの水をがぶ飲みしてちょっと一息つき夜の京都に繰り出して緊張の糸がふっと解けている中での寝耳に水嬉しい知らせに驚きと喜びと「いや今かよ!」と言うちょっとのツッコミをしつつ、既に入籍は済ませているとか言うものだからわたしの頭の中でヤバイTシャツ屋さんのハッピーウェディング前ソングが頭を流れたのであった。

ヤバイTシャツ屋さん - 「ハッピーウェディング前ソング」Music Video - YouTube

 

後に神と遊んだ時に「あの時は大人しかったが旦那も滅茶苦茶ぶっ飛んでる」と聞き、この嫁にしてこの旦那ありというかこの旦那にしてこの嫁ありというか、そんなものが浮かんだから恐らく別れることはない、と思う、たぶん。こればっかりは断言出来ないから夫婦関係が持ちつ持たれつ末永く続いてくれると非常に嬉しい。

そんなこんなで年末にそれとなく上司に伝え、年が明けて日付が確定した折に休みの申請をいち早くし、2か月前にはホテルを予約し、1か月前にお呼ばれドレスを調達し、ぎりぎりで小物類とヘアサロンを調達しと、改めて参加する側も結構骨が折れるなとそう思ったが、友人の晴れ舞台、ここでやらなきゃ女が廃るってことで気合とか諸々でひとまずは乗り切りました。

わたしの詳細な行動とかも書こうかなと思いましたが、それはまた後で。

 

しかし彼女が結婚か…。兎にも角にも、夫婦仲は良好みたいだしこれからも仲良く過ごしてほしい。

あまり身近に結婚する人間が少ないので何といえばいいか言いよどむのだけど、そもわたしたちくらいの年齢ならとっくに結婚して子供がいてもおかしくないんだよな、と。そう考えると一縷の望みと言うか希望の光のように見えてくるが、なんだか自分のことだと思えるくらいに酷く安心しきっている自分がいるのも事実。

例えばこの年齢でやれ婚活だなんだと躍起になっている女性にとってはこの「友人の結婚式」と言うものは悲喜交々と言うか、めでたい気持ちやら嫉妬やら羨望やらが入り混じり何とも言えない気持ちになるのだろう、と思う。

わたしは、どうなのだろう。

書いていて思ったのだがこれを考えると闇しか見え無さそうでちょっと怖いゾ。闇と言うか無だと思う。これもまた別の機会に。

何だかんだ言って彼女も無事に将来の伴侶を得たことは嬉しい限りだし、神をはじめ高校時代の友人も器用にやれば結婚できなくない、とわたしは思っている。

皆、わたしと違って才や学ある友たちだ。

神は絵がうまいし姪っ子で慣れているのか子供の扱いも上手い。

S嬢は可愛いし自分の考えている事や目標がしっかりしている。

馬氏は家事全般が得意で家庭的。胃袋を掴むのは王道。

N嬢は鍵盤がうまいし頭も良い。石橋を叩いて渡る堅実性と経験したことをユーモラスに語ることがうまい。

提督は嫁が居る。理解者が居ると言うのは一番の強みだ。

K氏はゲームがうまいし、しょっちゅうどこか行っている。職業柄と言うのもあるんだろうが、趣味に対するフットワークは軽い方が良いしバイタリティーもあるし何より優しい、いい奴だ。

確かにそれぞれ欠点はある。生きているからこそ。だがそれを補って余りある長所が光っているし、その武器をうまく使える様になれば道は拓けてくると思う。皆それぞれの光が、今のわたしには少し眩しいのかもね。

 

話が逸れてしまったが、友人が結婚してマジでとてもガチで嬉しいです。マジパねえ的な。

締めの言葉をどうしようか迷っているけどいいものが浮かんでこないし眠いしもうこんな時間だしちょっと古く平成的に締めようと思います。

 

祝ってやる!リア充末永く爆発しろ!!

花との触れ合い

先日自宅から2番目に近いスーパーの花屋に立ち寄った。最近の趣味は切り花を玄関に飾ることが唯一の救いになっている。

画像はキンギョソウとカンパニュラ。実はキンギョソウだけの購入の筈が、店員の方が「今日はおすすめが無くて、花の本数も少ないし最後の1本だから」と気を利かせてくれてサービスしてくれた。

立ち寄ったことのない花屋さんだったけれど、初見のわたしにも気さくに話しかけてくれたりサービスしてもらったので、このお花屋さんにはまた立ち寄りたいと思う。

 

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ちなみに、わたしには活け花やフラワーアレンジメントの知識は皆無。母は学んでいたことがあるらしいが、わたしには縁遠い話である。だから、買った花を水切りして水の量を調整して延命剤を入れて水に浸かる葉が無いように調整するだけで精いっぱいで、どこをどうしたら花が綺麗に見えるとか、そういう堅苦しいのは考えていない。

堅苦しいは言い過ぎかもしれないですね。ただ、自由に。そうありたい。

花の手入れをしているときは、職場の人間関係や家庭での家族のしがらみ、ネット上の知り合いからの脱却といいことづくめで、花と言うすごく身近な自然に触れて無心になっていればいいから気が休まる。

そう言えば以前PSYCHO-PASS槙島聖護がこんなことを言っていたのをふと思い出した。

槙島:紙の本を買いなよ。電子書籍は味気ない。

チェ:そういうもんですかねえ

槙島:本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある。

チェ:調整?

槙島:調子の悪い時に本の内容が頭に入ってこないことがある。そういう時は、何が読書の邪魔をしているか考える。
調子が悪い時でもスラスラと内容が入ってくる本もある。

何故そうなのか考える
精神的な調律?チューニングみたいなものかな。

調律する際大事なのは、紙に指で触れている感覚や、本をペラペラめくった時、瞬間的に脳の神経を刺激するものだ。

アニメPSYCHO-PASSの槙島聖護先生が典型的な紙の本原理主義者であると話題に | 脳味噌はなまる

 

なるほど、とわたしは思った。彼にとっての調整が本と言うツールならわたしにとっての調整は花と触れ合う、と言うものなんだろう。

確かに彼の言う通り紙の本は良い。調子が悪い時に紙の本をペラペラ捲ったときとか、実に良い刺激が伝わってくる。

話が逸れてしまったが、わたしにとって花の手入れや世話をしているときは、自分の置かれている立ち位置や精神状態をリセットまではいかずともニュートラルな状態に戻すことが出来る…と最近感じていた。飽き性のわたしが去年6月に始めた切り花を飾ると言う趣味が、10ヶ月続いている。花なんてとりあえず花瓶みたいなものと水があればいいだろ、などと思っていたわたしだったが、母がはさみを家のどこからか見繕ってきて切り戻しをするという作業があることをその時初めて知ったし、切るときは真っ直ぐではなく斜めに切って面積を大きくするというのも初めて知った。

暫くして切り花や枝もの、葉ものの処置の仕方が書かれた本を書店で購入したり、大きいものから小さいものまで花を飾れる容器を買いあさったり母から譲ってもらったり、切り花延命剤を試行錯誤しながら良いものをみつけたりと、楽しくハマれて自分が楽しいと思える趣味のひとつになっていった。

つい最近は枝切ばさみをホームセンターで購入した。先月に桃の枝を購入したのだが、手入れをする際に

  • 十字に切る
  • 切り戻し

前者は持っているはさみでなんとかなるのだが後者が曲者で、枝が太いものだとどうしても切れずに慌てて駆け込んで良いものを購入することにした。

水揚げ自体はうまくいっていたみたいだが、どうやらわたしが購入した時期に出回る桃は寒さと乾燥が重なると咲かないらしく、取れやすいつぼみを如何にして落とさない様に苦心していたら咲いた花は全体の2割~3割弱に止まるのみと残念な結果に終わってしまった。

来年また挑戦して、今年よりも多くの花を咲かせたい。来年は乾燥と寒さに気を付けて再挑戦しよう。

 

わたしの世界は白くて汚い

緩慢に流れる人生と言う名の潮流は時として激流になり、なんやかんやと押し流していく。

 

30代

独身

女性

 

この時点で色々なんていうかもう「あっ(察し)」みたいな感じになっているに違いない。おまけにアルバイターだ。救いがない。

 未来への不安が無いわけでは無いが、なんとなくぼんやりとしている。

苛烈に生きたいと願うも世界に拒まれ、平々凡々と生きようと試みるも世間に拒まれる。…いやこれは言い過ぎだが。

宙ぶらりん、とそういった方が正しいのかもしれない。

 

29歳で子供が2人居る女性をテレビで見たとき、ああ、世の中は29にもなれば子供のひとりやふたり居ても当然なんだなと、何となく思う。

昔は澄んだ色をしていた。何色かは覚えていない。青かもしれないし、赤かもしれない。黒が好きだったから真っ黒だったかもしれないし、あるいは夢を見ながら歩いていたときは真っ白だったような、そんな気がする。何れにせよ、わたしの心は澄んでいた。泉の周りは落ち葉だらけだったかもしれないけど、泉の水面には枯れ葉すら浮かんでいない、そんな状態だったのは間違いない。

それが、今はどうだろうか。

キャンバスでもスケッチブックでもなんでもいい。自分の心が一枚の白い紙やなにかだったとして、恐らく今わたしは透明な絵の具か何かを塗っているのだろう。あるいは、水彩画を描くときに水を入れる容器に筆を漬け入れ、絵の具を溶かすことなくそのまま紙に筆を走らせているだとか、そんな感じだ。

 

何を書いているのか文字通りわからなくなってきましたが、ここはご挨拶、短めに済ませたいと、そう思います。

先に書いた通り30代独身女が人生と言う航海に四苦八苦しながら時折趣味のものを書いたりそんな感じでゆるくできればいいと思います。