whitecanvas’s blog

真っ白なキャンバス。そこに何を描くのか。

祖母が他界しました。

去る三月下旬(2020年)に祖母が他界しました。残念ながら今流行のコロコロではないです。

見送りも一先ずは終えたので、頭の整理がてらつらつらととりとめのないことを書いていこうと思います。

 

祖母が他界する数日前、わたしは元気に労働に勤しんでいました。

仕事を終えて自宅に帰り暫くしていると母親がぽつりと「おばあちゃんが倒れた」と言った。

それを聞いたわたしはぽかんとしたし、何かの冗談だと、最初そう思った。わたしが直接見たわけでも聞いたわけでもなく、又聞き。確証も確定もされていないその言葉に、本当に冗談だと思っていた。何かの見間違えだと、聞き間違えだと。

母親的には今すぐにでもすっ飛んで行きたかったようだったが、自分の病院があるので数日先延ばしにする…と言う感じで話を聞いていた。

その日から母は胸が痛い、と時折胸を押さえていたのだけど、これは恐らく虫の知らせか何かだったのだろうと、今はそう思う。

一日か二日後あたりに叔父さんから電話があり、祖母の血圧がゆっくりと低下している、と知らせを受けた。どうやら病室から電話をしているようで、叔父さんはわたしに「何か声をかけてやってくれ」と言っていた。

わたしにとってそれは現実味がなく、どう声をかけていいか見当もつかず、支離滅裂な、雑談めいたことを言っていたと記憶に残っている。母に替わってほしいと頼まれ、離席中だった母に事情を話し携帯を渡すと「頑張ってね!!すぐ行くから、頑張って!!」と精一杯の声量で叫んでいた。

わたしはこのとき、祖母が本当に危ない、と初めて認識した。

 

次の日、母の病院が終わり、最寄りの駅で彼女の分の新幹線の切符を購入し、さていつ乗ろうかと母から相談を受け、わたしは明後日がいいのではないかと答えた。

万が一の場合の礼服の手配や、主に着替えや諸々。あまりにも急すぎたので準備が整っていなかったのが原因だったのだが。不幸中の幸いかどうか分からないが、次の日はとても強い強風で新幹線は止まり、祖父母宅に行く電車も少し怪しい…とそんな一日だったから出発しなくて正解だったと思う。

そして母は祖母が入院している病院へ向かい出発した。

わたしはわたしで仕事なり毎日の食事だったり、祖母が回復するか、あるいは…と言う何とも宙ぶらりんな感じで日々を過ごすのだろうと、その時はそう思った。

 

しかしそれは急に終わりを迎える。

わたしはいつも明け方までのんべんだらりと起きている。次の日に備えてそろそろ眠ろうと床に就き、うつらうつらとしているとわたしのスマホから着信音が鳴った。

着信の相手は母親。この時点で何となく察しはついた。受話器の向こう、母親が「おばあちゃんが亡くなった」と小さく言った。わたしは「わかった」と短く答えて電話を切り、父の部屋へ行くと寝ている父を起こして祖母が他界したことを告げた。

わたしは寝床へ戻るとぼんやりしながら母の言葉を反芻していた。

何時もなら気絶するように眠れるのに、その日はなかなか眠れなかった。

わたしの記憶が途切れたのは、外がもうしっかりと明るくなったときだった。

 

次の日、わたしも父も仕事に行った。わたしはすぐにでも行きたかったのだが、家長が判断したのだからそれに従うことにした。きっと何かわたしが知らない事情があるのだろう。仕事を終えて帰宅したわたしは自分と父の準備に取り掛かり、翌日朝方に上司に連絡し、自宅を出発したのは昼過ぎだった。

お通夜には間に合わない、それは承知の上で、母も事故が無いようにゆっくりおいで、と言ってくれた。なにせ自宅から祖父母の居る所までは車で片道7時間前後かかる。休憩時間を入れればもう少しかかるだろう。もちろん短縮できなくはないが、そっちの道はデメリットもある。遠距離はまず、幹線道路や知っている道を使った方が確実だし、田舎のガソリンスタンドの無さを舐めてはいけない。わたしの運転で、まずは怪我なく事故なく辿り着くことが第一のミッションだった。

 

わたしの頭の中はさながらシュレディンガーの猫だった。本当は何かの冗談か、そう思った。

刻々と過ぎる時間に比例して近づく目的地。運転自体は苦ではないし、別段逸る気持ちは特になかった。

だけど斎場について、棺の中で眠る祖母を見たときは、言葉が出なかった。

言葉が出てこなかったと同時に、出てきたのは後悔だった。

どうしてもっと祖父母宅に来なかったんだろう、電話越しでも構わなかったからもっとたくさん話をすればよかったとか、出てくるものは後悔ばかりで。

棺の中で眠る祖母は、化粧も相まって非常に血色が良く、まだ生きているんじゃないかと、そう思ってしまうほどだった。今にでも起き上がって、声をかけてくれるんじゃないかとか、そう思ってしまった。

父と共にひとまず残してあった料理を食べる。来る前に食事を済ませていたのだが、なんとなしに食べなきゃいけない、とそう思いながら食べていた。

父は寝ずの番を務めると言う事で斎場に残り、母と私は祖父母宅へ行くことにした。次の日も早いので、お風呂に入ってから諸準備をするとわたしは眠りについた。

 

次の日。礼服に着替える。何度か袖を通したことがあるが、いずれもそれは他人や遠縁の親戚だったり、知らない人の葬儀に参加するためにしか袖を通したことが無くて、なんというか不思議な気持ちだった。

お通夜には参加できなかった分お葬式は最初から参加をした。棺の中で眠る祖母は、昨日と変わらない。式は滞りなく進み、スタッフの方が故人に言葉をかけたり触ってあげたりしてください、と言っていたのでわたしは祖母にそっと触れた。

…とても、ひんやりしていた。

人生で冷たいものには何度も触れたことがある。冷水、氷、冷たい掌、深海の温度を模した鉄棒……。しかしそのいずれにも該当しない、冷たくなった人間の体温。いくら手が冷たくても、その冷たさの中に温かみがあるのが人間の体温と言うものだろう。だが、故人である祖母にはその温かみがない。この時わたしは、ほんとうに祖母が鬼籍に入ったのだという現実を突きつけられた。後頭部を、なにか見えない塊で殴られたような、そんな衝撃を受けた。この時の死者の温度は、きっと一生忘れないだろう。

だがそこで立ち止まるわけにはいかない。体が悪く式に参加できない祖父の代わりに祖母の写真を多く収めないといけない。

例え遺族――いやわたしも遺族だが――の許可があっても死者の写真を撮るのは憚られる。撮っていいのだろうかと二の足を踏んでいたが、母が「おじいちゃんのためにも撮ってあげて」と背中を押してくれたので、心の中で合掌をしてから棺の中で眠る祖母の写真をたくさん撮った。ひとりだけのも、母や叔父たちと一緒にフレームインしているものも撮った。暫し自由行動をしていると、火葬場に移動するというので、わたしは両親を車に乗せて霊柩車の後をついていき火葬場に移動した。

その後、諸々の手続きやさいごの挨拶をして、祖母を納めた棺は火葬するための炉に入れられた。

炉で焼かれている間は親族たちが和やかに歓談をしている。わたしは自販機で飲み物を買って飲みながら施設内にある喫煙所でぼんやりと煙草を吸っていた。喫煙者である叔父さんと、ほかのわたしの知らない人が煙草の話を興じている。

一服が終わるとわたしは父のとなりの椅子に座った。母は肉親であるから色々あるだろうけど、父はそうでもないし、わたしはとりあえず手持無沙汰をなんとかしようと父の傍に行っていた。何かあれば父が知恵を貸してくれる。わたしは父が大好きだから、有事の際の父は非常に頼もしいひとだ。

父も知り合いの人と雑談に興じていた。恐らく中には知らない人も居るだろうけど、父のコミュニケーション能力は半端ない。冗談交じりで会話を進めていく。わたしは知らない人だらけの中父の隣でスマホを弄っていた。ありがとう現代の利器。

そうこうしているうちに火葬が終わったとアナウンスが入る。火葬が終わったばかりの部屋に入ると、入る前より部屋の中がとても暑かった。きっと、たぶん恐らく、人を燃やしたあとの熱なのだろう。

部屋の真ん中には祖母の遺骨が横たわった状態で安置されていた。わたしが遺骨を見たのは、人生で数度あるが、その中でも群を抜いて残った骨の数が少なかった。

晩年寝たきりだった祖母の骨は脆く、確かに残ってはいるのだがあまり数は多くなさそうな印象を受けた。何れは父も母も、そしてわたしもこうなるのだろう。父母はともかく、わたしには誰か看取ってくれる人が居るのだろうか。骨壺に骨を納めた後、わたしはぼんやりとそう考えていた。看取ってくれる人が誰もいなくても、役所のひとでもいいから、最悪わたしの棺には子供の時から共に過ごしたぬいぐるみを1体入れてほしい。おはようからおやすみまで一緒に暮らしている家族であり友であり恋人のような子なのだ。その子がいれば、あの世でもまあ何とか楽しく暮らせると思う。しかしよくその火葬場の注意事項・棺に納められるものの欄を見たらぬいぐるみは×と書いてある。後生だから入れてほしい。それさえあれば他は何もいらない。

話が逸れたがその後お寺に移動して先に四十九日法要をやったんだと思う。だがこの道中、火葬場からお寺に移動するときにトラブルが起きる。両親と叔父たちは骨壺、遺影、位牌を持ち、ひとりは運転だったので同じ車に乗る。しかしその車はわたしの車ではなく叔父の車だ。わたしはというと、ひとりで行くのかなと思っていたらなんと故人への供え物を手に持った男子高校生がわたしの車に乗り込むことになった。わたしの頭は混乱した。確かにその男子高校生は火葬場はもとよりお葬式にも居たと思う。わたしが全く知らないだけで、母は知っているのだと思うけれどこのコミュ障に未知の生き物である男子高校生をぶつけるのは如何なものかと思う。案の定、道中暫く無言が続いた。

わたしは沈黙が嫌いだ。

車内の音楽はわたしが普段聞いている音楽が流れていたし運転していたことも相まって我慢できなかったわたしは勇気を出して沈黙を破った。

それを皮切りにわたしは道中彼と雑談に興じる。部活はどうだとか、進路はどうだとか、趣味はなんだとか。幸いにして彼の趣味の一つであるゲームにわたしは比較的広く浅く手を出しているので、どんなゲームしてる?みたいな感じで話に花を咲かせた。どうやらモンハンだったようで、わたしもモンハンはそこそこやっているので上手い具合に話題には事欠かなかった。やはり人生いろいろ手を出してみるものだと思う。

そうこしているうちに寺に着き、わたしは彼と歩を進めて境内に入る。両親と合流するとともに彼との会話は終わりを告げた。

諸々行事が終わり、祖父母宅へ帰る。家から動けない祖父の為に、精進料理は祖父母宅で取ろうと言う話らしい。わたしは邪魔にならないよう2階へ続く階段の途中で座っていた。

和やかに歓談しながら仕出し弁当を突き食べる。和食がメインでキッズのような舌を持つわたしの口には合わない料理もあったが、なんとか胃の中に収めた。

そんな中祖母の親戚なのかわたしは全く知らない人だけど、お兄さんが一人『能力者』のようで「祖母が見える。叔父(末弟)のことが心配で居間と台所をうろうろしてる」などと言っている。ほかにもわたしの隣に座る女の人の守護霊というか、猫飼ってる?傍にいて心地よさそうにしているよ、とか後ろに亡くなった方が居て守っているよとか言っている。どうやらマジモンの『能力者』のようで、狐の神様か何かを体内に入れているとも言っていた。どうやら他人の死ぬ日がわかるらしい。デスノートの死神と取引でもしたんか。だがそれを他人に言うと自分の寿命が縮まるし、自分がいつどうして死ぬということも分かっているから、みだりに言わない様にしていると言う事だった。

そんなお兄さんが帰り際に、叔父(次男)に対して意味深なことを言う。「すごく黒い靄がかかっているから、暫く気を付けた方が良い。取り返しがつかないことが起きる」

その時は叔父は酒が入っているせいもあってへらへらしながら大丈夫、気を付けると言っていたしわたしも話半分で聞いていたが、そのお兄さんの忠告はその夜現実のものとなった。

人間の死後、死者はどうあれ遺族間では揉め事が起きることが多い印象がある。遺産だったり何だったり、理由は様々だ。

次男と長男で喧嘩が起きた。理由は至極簡単、金銭関係。

わたしは居間でごろごろしながらスマホを弄っていたが次男も居間で酒を飲んでる。詳細はわたしにもよくわらかなかったが、次第に尋常ではない空気を孕んでいることに気付いた。気づいた時にはわたしも逃げるタイミングを逃して苦笑いしかできなくなっていた。

「金、金、カネって兄貴はそればかり!わかった!俺今から100万おろしてくるから、それ手切れ金。明日にはここを出て行って、この家とは縁を切る!」

物凄い剣幕で啖呵を切っていた。この時長男は自室に戻っていたが、ここ数日の金銭関係の鬱憤が爆発して堰を切ったように溢れ出していた。わたしは話を聞きながらあのお兄さん本物だな…とぼんやり思っていた。

近場に居た母と一通りの家事を終えた末弟が次男を宥めていた。わたしはいたたまれなくなってトイレ行ってくると席を立ち、用を足した後戻るのも嫌だったので階段に座っていたがまだ肌寒いのもあって居間の隣で寝ている父の隣の布団に入ると終わるまで耳を塞いでいた。

その後の事はよく覚えていないが、とりあえず縁切りまでには発展しなかったものの長男と次男はぎくしゃくしていて、他人行儀になっていた。最低限の会話はするがそれ以外は無し。例えて言うなら会社でどうしても嫌いな人と仕事しなきゃいけないときの作法のような、そんな感じだ。

そんな形で祖母の葬儀は幕を閉じた。母はまだ残っているとのことで、祖父母宅に残し、わたしと父は仕事があるからと着いた日から帰るまで4日間過ごしてから自宅に戻った。

この数日間はいろいろあったと思う。ただ、わたしはおばあちゃんっ子じゃないから、祖母の他界ではあまりダメージは受けなかった。だが、それはつまり逆である。わたしはおじいちゃんっ子なのだ。小さい時から祖父母宅に行けば祖父が海に川にと連れて行ってくれて、祖父の持つ小さな舟にのって釣りに出かけたりしたり、色々なことを教えてもらったりした。わたしは幼いながら、祖父と出かける海が大好きだったし、舟に乗って普段はいけないような所で船酔いしながら過ごすのがとても好きだった。祖父の作るいわしのつみれが、とても好きだ。

今(2021年7月)両親から聞いた話だと祖父は肺炎を患って入院中らしい。コロコロではない。実しやかな噂だが、半年持つか持たないか…などと噂されている。

祖父が他界したら、わたしはいったいどんな顔をするのだろうか。できればあまり想像したくない。それでも僅かな可能性があるのなら、祖父には少しでも長生きしてほしい。

単なる孫の我儘を綴ったところで、この話はここで終わりとします。あれから1年と少し経ちましたが、コロナの影響で祖父母宅には行けずじまい。早くなんとかならんかなあ……